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ドキュメンタリー映画「鉄西区」
映画美学校で週末にかけて上映されていた「鉄西区」を見に行った。昨年の山形ドキュメンタリー映画祭でも上映されていたが見逃していた。1967年生まれの中国人映画作家・王兵が、3年間かけてビデオで撮影した一地域の記録。鉄西区は中国北東部シェンヤン(瀋陽)の周辺の工業地帯のひとつで、シェンヤンはかつて日本の占領軍から奉天と呼ばれていたところ。

1)第一部 工場(240分)
冒頭に高所からの工場全体の俯瞰図。そして、列車に乗って移動撮影で捉えた街の風景を見せる。日本占領時代に設置された工場から始まり一大工業自体に発展した「鉄西区」は、今では設備が老朽化し時代の流れに乗り遅れて衰退の一途を辿っている。
僕は石油コンビナートで仕事をしていた経験があるので、この労働者たちが身近に感じられた。でも日本の現場ほどの緊迫感が感じられない。この鉄西区ではすでの大半の工場が生産停止している。作業員たちの口から上司や体制の悪口が飛び出す。休憩室ではカード遊びに興じている。彼らはよく風呂に入っている。
4時間ほど続く第一部の後半では、眠気との戦いで、ほっぺたをつねってばかり。しかし、後半の保養所の場面で息を吹き返せた気がする。鉛中毒らしい元労働者が無為に過ごす日々。ひとりの男が池で溺れ死ぬ事故が発生する場面は不吉だ。人々は体制によって飼い殺しされているような印象を受ける。多くの事務所が閉鎖されていく。産業の衰退はゆっくりと、しかし着実に、地域を変えていく。
2)第二部 街(175分)
ついにカメラは工場の塀を越えて、街に出て行く。ここで記録されるのは低所得者層が住み、新開発のために立ち退きが強制される地域。特にカメラは、時間と精力を持て余している17歳前後の若者グループの日常の日々を追いかける。彼らは別段不良というわけでもないが、いつも路地をふらふらしている。この町には希望を与えてくれる仕事がない。低賃金・重労働に甘んじるか、暇を持て余すか、チンピラになるか。そんな選択枝しか持たない彼らは、親の世話になりながら無為に過ごしている。厚底靴を履く女の子、髪を染めた男の子、男女交際に興味を持つなど、一見したところ日本の若者と違いがない。中国の特殊な状況を越えて、現代の若者の姿が浮かび上がる。たわいないことで大笑いした後に沈んで沈黙する瞬間を捉えたクローズアップが、はっとするほど美しい。なんら社会的役割の背負わない若者たち。やがて彼らのねぐらさえもが、街ごと強制退去させられ破壊される。哀しく美しい時間の流れを「第二部・街」は捉えている。
3)第三部 鉄路(130分)
工場、街と対象をずらした「鉄西区」は、第三部で都市の血管ともいえる鉄道をカメラの対象に選ぶ。この長〜い上映時間の中で、映画が進行するほど時間の流れが速く感じらるのは、カメラの対象がどんどん動きのあるものになっていくからだ。列車上から撮影された風景、機関室内の鉄道員のやりとり、彼らの休憩室での会話、食事風景、トランプ遊び。そして、線路周辺をうろつく奇妙な父子。この父子にカメラが密着して捉えた映像に、思わず身を乗り出してしまう。それなりの地位があったらしいが破産してホームレスに近い状態にまで落ちぶれた父親と、その父親なしでは生きていけない寡黙な息子。父親が警察に連行されたとき、息子があばら家で目に涙を浮かべながら心細そうに父親の帰りを待つ場面では、思わずこちらまでもらい泣きしてしまった。単に父子の絆の強さというだけでなくて、無表情だった息子がカメラの前に自分をさらけだし、突然、感性豊かな青年に見える瞬間がとても美しかった。このあとに父親が釈放されて開かれる小家族の祝宴は腹を抱えるほどおかしい。

これだけ長大な作品だが、構成はピラミッドのように堅固にできている。ひとつの地域が衰退していく状態を、まず工場という定点で捉え、次に街を動き回る住民たちに密着して捉え、次にそれ自体が移動する列車から流れる風景を捉える。全編およそ9時間に及ぶ上映時間の中でも時間の流れは加速度的に増していったように思う。そして、結局のところ、工場作業員の日々や、無職の若者たちの生活や、鉄道員たちの日常、くず鉄拾いの行動も、あらゆる方向に拡散するかに見えた光が凹面鏡にあたって焦点をむすぶように、映画の中で焦点を結ぶ。映画は終わるが、それを見た私たちの心の中に、この「鉄西区」という地域の面影が残像となって残る。
第一部の「工場」は少々長く感じたが、この作品の礎となる出発点なので、やはり欠くことができない部分だったのだろう。
また、もうひとつ印象的だったのは、制作者・王兵が作家性を作品に反映させようとしていないように見える点。監督の目線をカメラの視線に重ねて主観性を消し去っているように見えるフレデリック・ワイズマンのドキュメンタリー映画でも、やはり細かに見れば「編集」という作業によって、作家自身の思想や社会への批判が表現されているように見える。一方、王兵は庶民に寄り添い、気持ちを重ね合わせて、撮る側と撮られる側の距離をすれすれまで縮めることにひたすら努力しているように見える。
最後に思ったのは、体制(資本主義にしろ共産主義にしろ)というのは民衆に不平等を納得させるためのシステムなんだなぁということ。
| 2004年4月の映画 | 23:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
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