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ランド・オブ・プレンティ
ヴィム・ヴェンダースの「ランド・オブ・プレンティ」にでてくるポール伯父さんって、「病めるアメリカ」そのもの?映画の鑑賞後に入った居酒屋で友人と話していた。この映画、かなり疲れたのは事実。う〜ん、この場合、物語の面白さを求めてはいけないんだろうね。やっぱりヴェンダースだからねぇ・・・それにしても、腑に落ちないのは、アメリカ生まれでアフリカやイスラエルのヨルダン川西岸地域で育ったという奇妙な姪のラナ。彼女の汚れのない美しさや無垢さに、アメリカ再生へのわずかな希望の光を見いだしてる、ということ?

ベトナム戦争に出兵したポールは、当時使用されたオレンジ爆弾の後遺症と、戦争体験によるトラウマに苦しんでいる。彼は我が合衆国が外敵に脅かされていると、アラブ人は見ればテロリストではないかと疑心暗鬼、爆弾を製造しているに違いないと憶測をめぐらす。まさに、9/11後のアメリカの姿。

このポールはたまたまアラブ系のホームレスが射殺される事件を目撃したことから、ますます空想が発展して混迷した世界に入り込む。孤軍奮闘、ついに戦闘服を着て銃を持ちゴーグルをつけ、アラブ人で出入りする家へ塀を乗り越えて突撃!この家をアジトにして“汚い爆弾”でも製造し隠し持っているに違いないんだ・・・そう思って侵入すると、そこにただ寝たきりの婆さんが寝ているだけだった。途方に暮れるポール。ヴィム・ヴェンダースは、イラクが大量破壊兵器を隠し持っていると世界に発表して、国連決議もないまま侵攻していった米軍は、まさにこのポールだといいたいのか。

わかるような、わからないような映画だった。ジョン・ディール演じるポールの真剣さと悲壮感、そして若干の滑稽さを漂わせているところが確かに見どころといえるかも。一方、ミシェル・ウィリアムズが演じているラナは、華奢な体つきと端正な顔立ちがガラス細工の人形のように美しいけど、その出生の奇妙さゆえに現実味に欠ける存在。宣教師の娘でありながら、キリスト教徒とイスラム教徒のどちらにも慈しみの気持ちをもっている理想的な女性・・・ということなのか?また、流浪の民らしいパレスチナからの亡命人兄弟をどう捉えればいいのか?僕には正直、腑に落ちない点も多かった。

後半の哀愁漂う夕暮れの場面を見てて、きっとヴェンダースはアメリカが再生することを祈る気持ちでこの作品を作ったのかなぁなどと思っていた。最後に伯父ポールと姪ラナがニューヨークに行ってグランドゼロを見下ろす。工事現場のようなこの景色を見ても不思議と何の感慨が湧いてこないなぁ、みたいなことを確かポールが言ったと思う。正直言って僕はほっとした。というのも、このグランドゼロには十字架が立っているからで、それが画面一杯に映し出されたらとどうしよう?と心配になったからだ。さすがにベンダースがそんな安易な象徴に頼らないことがわかって、ほぉっと安堵。
| 2005年10月の映画 | 09:24 | comments(2) | trackbacks(2) |
Live & Talk Event ジャック・ドゥミの思い出 (10月27日&28日)
東京国際映画祭 ジャック・ドゥミ没後15周年記念特集として、ライブ&トークショーつきのイベントにいくことができた。10月27日は、「シュエルブールの雨傘」上映前にギタリストの村治佳織さんと小沼純一さんのトーク(演奏はアコーディオンのブソレッティさん)、10月28日は、「ロシュフォールの恋人たち」上映前に仏文学者野崎歓さん(演奏はピアノ、笛木健治さん)。司会はどちらも映画祭事務局の矢田部さん。場所は渋谷文化村内のカフェ、ドゥー・マゴー。
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| 2005年10月の映画 | 10:18 | comments(3) | trackbacks(1) |
ゴダールの「アワーミュージック」
前に日仏学院で上映されたジャン=リュック・ゴダールの新作「ノートル・ミュージック」が、「アワーミュージック」という邦題になって公開された。上映時間80分は一般公開映画で短い部類。しかし、ゴダール映画の80分は重かった。「アワー・ミュージック」と同じくサラエヴォが登場する1996年のゴダールの作品「フォーエヴァー・モーツアルト」の85分と比較しても、その重さは増しているように感じられる。


初めて見たときの印象は、1月19日の記事に書いたので、ここでは感想よりも自分にとってのメモ書きをしようかなと思う。ヨーロッパや中東の歴史・文化についての知識が作品を理解する必要となるのは確か。でも、セリフばかりの映画とか、言説を伝えるためだけにある作品とは思わない。様々な登場人物の声を通して、ゴダールは観客に言葉を投げつけてくる。あるべき脈絡を分断して、ぽんぽんと放り投げてくる。だからといって、映像が添え物になっているわけではないだろう。むしろ、聞き取れるか聞き取らないかという低音で、映像が私たちに語りかけてくるという点、そこが大事なんだと思う。ひとつひとつの映像の単純さ、明解さ。独特の編集によって生まれる奥深さ、豊かさ。その豊穣にして重たい80分・・・・

1)モスタルの橋

ヒロイン、オルガがある小学校を訪れると、女性教師の説明を中年の男(建築家らしい)が仏語でオルガに通訳している。「町の名モスタル Mostar にあるMostとはスラブ語で“橋”のことです」

ボスニアには行ったことないけど、ネトレバ川にかかるモスタルの橋はかなり有名らしい。戦争で一度破壊されたあと、再建の努力が続いているとか。→参考HP旅人のボスニア・ヘルツェゴビナ、崩壊された宝物

映画の中で、実際のこのモスタルの橋の前のシーンでイスラエル人オルガとアメリカ先住民(インディアン)が登場していた。イスラエル人たちはパレスチナ人を追い出す正当性を主張するとき、アメリカ建国時に白人たちが先住民の土地を奪って開拓した歴史的事実を引っ張り出して、しばしば口実とするらしい。このことを思い合わせると、この場面の意味が浮き上がってくると思う。ボスニア・ヘルツェゴビナの悲劇、アメリカ建国の歴史、イスラエルでのパレスチナ問題・・・と時空を越えて民族の対立について考えさせる場面。

2)聖母の出現 ルルド(フランス)←→メジュゴリエ(ボスニア)の連想

映画の中ほどでフランス第2帝政期にある少女が聖母を見たと証言するエピソードはフランスの有名な聖地ルルドの奇跡を語っているらしい。同じようなことが20世紀のボスニアでもあって、1981年というごく最近の出来事。ボスニア戦争による荒廃にもかかわらず巡礼地として賑わっているという。

ルート181についての記事でもとりあげた四方田犬彦氏の「見ることの塩」がイスラエルと旧ユーゴの実情について著述していて、この本を読んだことがタイムリーで、知識のない私にとても役だった。

最後のオルガの表情。幸せに満ちた天国のイメージでありながら、夢の世界に漂っているかのように彼女の眼差しは混濁している。すぐ傍に横たわっているはずのもうひとりの自分は未だに姿を現さない。ただ岸辺に波が寄せるのみ・・・(人がすべてを見通す視線を持つことは永久に不可能なのだろうか?)
| 2005年10月の映画 | 23:40 | comments(0) | trackbacks(28) |
賈樟柯監督の映画「世界」
ラストで画面が暗転した中で聞こえた、〜私たちって、もう終わったの?いや、おわってない、これからよぉ〜みたいなセリフは聞き覚えたが、・・・・これって、まさか・・・あの日本映画へのオマージュじゃなんかじゃないよね。校庭で自転車を漕いでいるのと、一酸化炭素中毒で横たわっているのとの違いはあるけど・・・いくらオフィス北野がかかわっているとはいえねぇ、まさか・・・・そして、小津の「東京物語」の音楽の奇妙な挿入がなんとも奇異だし、縁側に座った女優たちを捉えるショットの構図とアングルは、ちょっとまあ、あんまりじゃないだろうか?

「プラットフォーム」が大好きで、先日の山形国際ドキュメンタリー映画祭審査委員も務めた賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督の新作に期待してたけど、かなりがっくり。力なくとぼとぼと家路についた。なんと無駄な2時間20分か。「君に読む物語」の感想で悪口さんざん書いて、それでもこういう映画に感動する人もいるんだから、けなしちゃいかんと思い、もうつまらない映画の感想は書くまいと決めていたのだけど、・・・あんまりの失望の憂さを晴らすためにちょっとだけ悪態をつくことにした。

若者、というより、若者ではもうなくなって30代に近づきかけている登場人物たち。世界の観光地を再現した北京のテーマパークで働いている。このミニチュアでバーチャルで薄っぺらい世界を背景にして物語が展開するのだけど、その人生の夢や目的のないむなしさを、さらに増幅させる現代音楽のかったるさはまったく好きになれなかった。

これが現代の中国を反映しているだって?確かに携帯電話は普及しているらしい。この映画でも重要な役割を果たしている。都市と地方の差も感じられる。でも、だから?「プラットフォーム」のときの映像のリズムは生き生きしていたのに、「世界」では死んでしまっているよ。なんとも虚しい映画だった。もう一度、新しい映像世界をジャジャンクーに切り開いてほしいなぁ。
| 2005年10月の映画 | 23:18 | comments(0) | trackbacks(1) |
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